Hiro goes to sea

ヒロ、キングクラブを獲って食べる

こんにちは、ヒロです。 今日は、ぼくのアラスカ人生でもかなり上位に入る、 ものすごく海くさくて、 ものすごく寒くて、 ものすごくおいしかった日の話をします。 そうです。 キングクラブです。 しかも、店で出てきた立派な皿を前に感動した話ではありません。 ぼくが船に乗り、 海の男たちと一緒に出て、 ほんとうにそれを獲り、 そのあと自分の手で料理して食べた日の話です。

その日は、ただの食体験では終わりませんでした。 漁師たちの背中。 波の冷たさ。 甲板に響く金属の音。 引き上げた籠の重み。 湯気の立つ脚を割る瞬間。 口いっぱいに広がる甘み。 そして、「この土地の海で生きる」ということの重さ。 その全部が、一皿の向こう側にありました。

キングクラブは、皿の上ですでに伝説みたいな顔をしています。 大きい。 赤い。 いかにも豪華。 でも本当にすごいのは、その前です。 どんな海から上がってきたのか。 どんな人が獲っているのか。 どんな手つきで扱われるのか。 それを知ったあとで食べると、味は別の次元へ行きます。 ぼくはその日、それを知りました。

最初の印象 海が本気で冷たい
最初の衝撃 籠は想像よりずっと重い
最初の学び 塩ゆでは短く、火を入れすぎない
最後の余韻 漁師の手の記憶まで残る
キングクラブは、
ごちそうというより、
海と人の力仕事の結晶だった。
ぼくはそれを、口より先に目と耳と鼻で覚えました。
キングクラブを前にしたヒロ
キングクラブの皿
港の漁船
第一章

まだ暗いうちの港で、ぼくはすでに少し負けていた

集合は早朝でした。 というより、ぼくの感覚では夜です。 空はまだ深い色をしていて、 港の灯りだけが水面に細く揺れていました。 船の影が並び、 どこかで鎖のこすれる音がする。 風は冷たく、 いきなり鼻の奥まで海の匂いが入ってきました。

漁師たちは、すでに働く顔をしていました。 ぼくみたいに「今日は楽しみだなあ」という観光の顔ではありません。 静かで、 無駄がなくて、 眠そうに見えて、 でも身体だけは完全に起きている。 あの感じは忘れられません。

「ヒロ、手袋は?」 ひとりが聞きました。 ぼくは自信満々で見せました。 すると一瞬だけ沈黙があり、 そのあと全員が笑いました。 「それ、町を歩く手袋だな。」 うっ。 出航前から、ぼくは完全に海の初心者でした。

でも、その笑い方は意地悪ではなく、 「よし、今日はちゃんと面倒を見てやるか」という感じの笑いでした。 その時点で、ぼくは少しうれしくなっていました。

出航前の港と漁船
第二章

海へ出た瞬間、景色の美しさより先に仕事の匂いがした

船が港を離れると、景色は確かにすばらしかったです。 空は広く、 水は重く、 遠くの山にはまだ雪が残っていて、 日本の海とは明らかに密度が違う。 でも、ぼくの記憶に最初に焼きついたのは美しさではありません。 仕事の匂いでした。

濡れたロープ。 金属。 海水。 ディーゼル。 そして、人が何度も何度も同じ動きを繰り返してきた甲板の匂い。 そこに立つと、 「これから海を見に行く」のではなく、 「海に用事のある人たちの場に入っている」のだと、はっきり分かります。

漁師のひとりが、海面をちらりと見て言いました。 「今日は悪くない。」 その一言の重みがすごい。 ぼくは思いました。 海を相手に毎日働く人の「悪くない」は、 たぶん、ものすごく信用していい言葉なのだと。

海の男たちは、
大きなことを言わない。
でも手と背中が、
だいたい全部語っている。

そのことを、ぼくはその日ずっと見ていました。

第三章

籠を上げる。ここから先は、もう完全に力仕事だった

いよいよ籠を引き上げる時間です。 ぼくは正直、どこかで少し映画みたいなものを想像していました。 海の上で号令が飛び、 きらっと蟹が現れ、 「やったぞ!」みたいな。 現実はもっと重かったです。

籠が上がってくる。 水をしたたらせながら、 黒くて、ごつくて、重い塊が持ち上がる。 その時点で、もうかっこいいとか洒落ているとか、そういう言葉は吹き飛びます。 ただ、「重いなこれ!」です。

漁師たちは手際がいい。 ひとりが位置を見て、 ひとりがロープをさばき、 ひとりが無駄なく動く。 ぼくは邪魔にならないようにしているだけで精一杯でしたが、 それでも身体の芯が妙に熱くなりました。 こういう現場は、人の動きそのものに見とれてしまいます。

そして籠が開いた瞬間。 いました。 本当に、いました。 ごつごつした脚。 赤茶色の甲羅。 でかい。 いや、ほんとうにでかい。 ぼくは思わず笑ってしまいました。 「うわっ、本物だ!」 いま思えば、ずいぶん子どもみたいな感想です。 でも、そのくらい圧倒されたのです。

キングクラブの迫力を思わせる一枚
第四章

キングクラブを手に持つと、海の重さまで伝わってくる

漁師が一杯持ち上げて、 「ほら、ヒロ」と言いました。 ぼくは受け取ろうとして、すぐ顔が変わりました。 重い。 しかも、ただ重いのではありません。 しっかり生きものの重さなのです。 冷たくて、 甲羅は硬くて、 脚は見た目以上に太い。

「これが店で出てくるのか……」 思わずそうつぶやくと、 近くの漁師が笑いました。 「皿の上だけ見てると、急にごちそうに見えるからな。」 その言い方が、すごくよかった。 誇らしさもあるし、 でも少し茶化してもいる。 毎日これを相手にしている人の余裕です。

その手を見たのを、ぼくは忘れません。 太くて、 傷があって、 乾いていて、 でも動きはとてもやわらかい。 乱暴に見えて乱暴ではない。 海の男たちの手というのは、たぶんああいう手を言うのです。

第五章

港へ戻ってからが、ぼくにとっての第二の授業だった

漁を終えて戻るころには、 ぼくの頭の中はすでにいっぱいでした。 海の音、 甲板の動き、 漁師の声、 そして実際に見たキングクラブの重み。 でも、その日の本番はまだ半分残っていました。 食べるまでが、物語なのです。

港へ戻ったあと、 ぼくは「どう料理するのがいちばんいいのか」を教わりました。 すると、意外なほど答えは簡潔でした。 余計なことをしない。 これに尽きます。

キングクラブは、香りの強い香辛料でごまかすものではない。 まず塩を入れた湯で手早く火を入れる。 あるいは、蒸して旨みを逃がしすぎない。 火を通しすぎると、せっかくの甘みが締まってしまう。 身のふくらみと、ほぐれ方と、湯気の立ち方を見る。 漁師の説明は短いのに、ものすごく説得力がありました。

ぼくはそのとき、 料理上手というのは、たくさん味を足す人ではなく、 食材がいちばんよく見える地点で止まれる人なのだと思いました。

キングクラブを前にしたヒロ
第六章

いちばんうまかった食べ方は、結局いちばんまっすぐだった

いよいよ実食です。 湯気の立つ脚を前にして、 ぼくは少し静かになりました。 海の上で見たものが、 いまここで食べものになっている。 その距離の短さに、妙に感動していたのです。

殻を割る。 すると、中から白くて艶のある身が現れる。 あの瞬間はたまりません。 「うわ……」 もう、この日ぼくは何回「うわ」と言ったのか分かりません。

ひと口食べる。 まず甘い。 それから海の香りが、塩気の角を立てずに広がる。 繊維はしっかりしているのに、口の中ではふっとほどける。 変に濃い味ではありません。 なのに印象はすごく濃い。 それがキングクラブでした。

いろいろ試しましたが、 ぼくがいちばん好きだったのは、 まず何もつけずに食べること。 次に、ほんの少しだけ溶かしバター。 そして最後に、ごく軽くレモンを落とす。 それ以上は、もう要らない。 ほんとうに、それで十分でした。

最高のキングクラブは、
「料理した感」より、
「いま海から来ました感」が勝っていた。
ヒロの飲みもの講座

キングクラブに合わせたい飲みもの

きりっと冷えた辛口の白ワイン

まず王道です。 甲殻の甘みをつぶさず、 口の中をすっと整えてくれる。 ミネラル感のある白は、海の香りと相性がとてもいいです。

よく冷えた淡麗の地ビール

漁師たちの空気にいちばん似合うのは、これかもしれません。 ごくごく飲めて、 塩気と甘みの両方を気持ちよく流してくれます。 豪快な食卓によく合います。

きれいに冷やした日本酒

これはぼくが個人的にかなり好きでした。 とくに、香りが強すぎず、すっと切れるタイプ。 蟹の繊細な甘みを、日本人の舌にいちばん自然に橋渡ししてくれます。

第七章

漁師たちが、ぼくの中にずっと残った

正直に言います。 キングクラブはもちろん忘れられません。 あの甘みも、 脚の太さも、 甲羅の迫力も、 湯気の匂いも。 でも、それと同じくらい強く残ったのは、漁師たちでした。

しゃべりすぎない。 自慢しすぎない。 でも、必要なときにはさっと助ける。 海を知っている人の冗談は、 なんだか少し重みがあって、妙にあたたかい。

ひとりが、食べ終わったあとに言いました。 「ヒロ、今日の蟹はうまかっただろ。」 ぼくが大きくうなずくと、 彼は肩をすくめて笑いました。 「そりゃそうだ。おまえ、朝から海でちゃんと冷えたからな。」

その言葉が、すごく好きでした。 うまいものは、急に皿の上に現れるわけじゃない。 海の冷たさも、 仕事の重さも、 人の手も、 少しだけ自分で体験したから、 余計にうまいのだと。 そういう意味だったと思います。

港に戻った漁船
ヒロの結論

ぼくはキングクラブを食べた。でも本当に味わったのは、海の仕事だった

あの日のことを思い出すと、 最初に浮かぶのは赤い脚ではありません。 まだ暗い港。 冷たい手すり。 濡れた甲板。 漁師の手。 そして、引き上げられた籠の重みです。

そのあとに、ようやく湯気の立つ身が来る。 つまりキングクラブのおいしさは、 その前にある全部の記憶と一緒にやって来るのです。 だから忘れられない。 だから一皿以上になる。

もしアラスカでキングクラブを食べる機会があるなら、 できれば、ただ豪華な料理としてではなく、 海の向こう側まで少し想像して食べてみてください。 きっと味が変わります。 いや、味そのものは同じでも、 心に残る深さが変わるはずです。

いちばんうまい蟹は、
いちばん海に近い記憶を連れてくる。

あの日のぼくにとって、キングクラブはまさにそういう食べものになりました。

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この話の肝

ヒロが学んだこと

  • ごちそうの本当の重みは、海の上で決まること。
  • キングクラブは、足しすぎず、まっすぐ料理したほうがうまいこと。
  • 白ワイン、淡麗の地ビール、冷やした日本酒がよく合うこと。
  • 漁師の手と背中は、料理の味の一部になること。
読後の余韻

このあとに残ってほしい気持ち

  • キングクラブを、いつか本場で食べてみたいという憧れ。
  • おいしさの向こうにある仕事まで想像したくなる気持ち。
  • 漁師たちの無口な格好よさへの敬意。
  • ひと口の向こうに、海の朝が見える感覚。
結び

ぼくはキングクラブを食べて感動した。でも、本当に心を奪われたのは、その向こう側でした。

海の冷たさ。 漁師の手。 甲板の音。 そして、湯気の立つ脚を割ったときの、あの甘い匂い。

あの日のキングクラブは、 ただ豪華だったのではありません。 ちゃんと物語を持っていました。 だから、いまでも思い出すたびに、口の中より先に胸が動くのです。